あづさゆみ (COMITIA147)

A Story Of Spring

梓弓はる芽に散りしうそぶくは
いはれぬおもひ花にせばやと

本文現代語訳

 ある冬のちょうど夜明け頃、湖の縁を一人の可愛らしい少女が歩いていた。袙姿の少女は、小綺麗な格好で艶やかな髪は長く、貧しい身分とは見えなかったが、手足は細く痩せていて、その足は素足であった。
 少女は何処も見ていないような虚な瞳で、寒さなど気にならないというような様子だった。白い息を細々と吐き出して、時折木の根や石につまずきながら「静かな場所」と呟いた。
 少し視界の開けた木々の間で、少女はようやく足を止めた。静寂の中で少女は舞をはじめた。難しくはない踊りだったが、少女のしなやかでたいそう丁寧な仕草から、少女はこれを長い時間をかけて練習していたのだと思われた。
 どれくらいの時間が経っただろうか。少女がようやく舞をやめたころ、何処からか「本当に綺麗だ」という声が聞こえた。「誰?」と少女は驚き、声のする方へ顔を向けると、そこには小さな美しい少年が立っていた。少女は驚きあやしみ、その姿を見たいとは思ったが、何となく少年の顔から目をそらしてしまった。
 舞を練習していたのかと少年が尋ねたところ、少女はかすかに頷き、恥ずかしかったのだろうか、すっかり俯いてしまった。「また会いにおいで」と少年が言ったが、少女はぎこちなく笑うだけで、少年と目も合わせなかった。
 次の日も少女は湖の前に現れた。少女は「もうここには来ないだろう」と思っていたが、何となく気になってしまい、うろうろと歩き回っていたところ、自然とこの場所にたどり着いたらしい。少年はやはり昨日と同じ場所にいて、少女に「待っていたよ」と声を掛けた。こんな寒い場所に一人でいるのはおかしいので、少女は少年のことを怪しいと思ったが、少年の柔らかな声を聞いていると、不思議と打ち解けてしまい、話すのが楽しいと思い、気がつけば自分の身の上の話もするようになってしまった。
「私は前の新嘗祭で帝の前で舞を納める舞姫に選ばれたが、その日はとても暑くて体調も良くなかったため、最後まで舞うことができなかった。めでたい行事を台無しにしてしまったので、帝との縁談が無かったことになり、私は家の人に恥をかかせてしまったのだ。お世話になっていた乳母に妬まれてしまい、春になったら家を追い出される予定である。幸いなことに、寺のお坊さんに世話をしてもらえることになったが、私は来年から白拍子として行脚しなければならないと言われた。また舞でつらい思いをしたくないので、ここで一人で練習しているのだ」と少女は言った。
 少年はただ頷いて少女の細く冷たい手を握り、「また会いにおいで」とだけ言った。
 それから少女は毎日少年のところに来るようになった。少年はは少女の舞をいつも褒めて、最後には「また会いにおいで」と言った。少女は少年に会うのを楽しみにしていたが、どうしたものか、いつもその顔を見ることはできなかった。
 湖が凍るほど寒くなった頃、少女はいつも通りにやって来たが、少年の姿を見るなりその場に倒れ込んでしまった。少年は「これはどうしたものか」と思って駆け寄り、少女の前にしゃがみ込んだ。
「今日はなんだか眠い」と少女が目を閉じるのを見て、少年は何驚きあやしみ、いたましく思って、何かを決心したような面持ちで、少女の来た道を辿って歩いて行った。
 少女が目を覚ますと、そこは少女の家であった。しかし、辺りには誰も居らず、いつも少女を罵り馬鹿にする乳母の声もしなかった。少女は少し安心したが、やはりおかしいと考え直し、自分の今までの行動を考え直した。今までの行動を思い返す中で、少女は自身が湖の側で倒れたことを思い出した。誰が私をここまで運んできたのだろう、少年ではなかろうか、と考えた少女は、木戸をそっと開けて外に出た。
 少女が視線を上げると「目が覚めたんだね」と少年の声がした。少女はそこで初めて少年の顔を見た。
 少年の顔は非常に美しく、その肌はまるで雪のようで、少女を見つめる瞳はまるで滴のようであった。そして、その姿形は少女にそっくりなのであった。少女は自分とそっくりの少年に驚き、「あなたは一体誰なのか」と聞いた。もしかすると、これより前に会ったことがあるのではないかと少女は思ったが、少年はその考えに答えるかのように微笑んで、「その答えはきみが一番よく知っているはずだ」と言った。気づけば少女は少年に押し倒され、雪の上に仰向けになっていた。
「きみを虐げる者はもういない、きみを苦しめるものは何もない。きみはもう自由だよ」少年の声は、よく聞けば少女に似ていた。驚いて声も出せない少女は、段々と少年の存在が恐ろしくなった。「これまでずっと、きみは僕と一緒にいたし、これからもずっと一緒だよ」「あなたは誰、私はあなたのことを何も知らない」「知っているはずだよ」少年は少女の頬を撫でながら、にっこりと笑った。「君は僕で、僕は君だよ」
 少女は咄嗟に側にあった小枝を手に持ち、少年の美しい顔に振りかぶった。
 氷が割れるような大きな音に、少女は思わず目を閉じた。そっと目を開けると、それは先ほどまでいた自分の屋敷ではなく、いつも少年と会っていた湖のそばであった。そして少女は、その湖の氷を小枝で割っていた。
 それから季節は巡り、山が春の気配で満たされた時、少女は笠を被って山を降りていた。桜が咲く山道はとても美しく、少女の足取りも軽かった。少女の背丈は少しだけ伸びていたが、美しい顔立ちは変わることなく、すれ違う人から噂されるほどだった。しかし、少女はどこか憂いを帯びた表情で、ぼんやりと遠くを眺めるばかりだった。
 ふと少女が顔を上げると、小さな小鳥を見つけた。少女の目の前を飛んで行った小鳥に、「これはきっと」と少女は思った。

本文

 ある冬のをりしも夜明けほど、湖のたよりを一人の美しき少女歩きけり。袙姿の女の童は、清げなるかたちに艶なる髪は長く、わびしききはとは見えねど、手足は細くやつれ、その足は素足なりけり。
 童女は何処も見たらざるごとき虚な瞳に、寒さなど案ぜずといはむけしきなりけり。白き息を細々とはき出だして、おのづから木の根や石につまずきつつ静かなるかたと呟きけり。
 あからさまに目路の開けし木々の間に、童女はやうやう足を止め、しじまに舞をはじめにけり。難くはあらぬ踊りなれど、いとねんごろなるふりより、これを長きほどかけ習へりと覚えけり。
 いかばかりのほどや経けむ、やうやう舞をやめしころ、何処よりかげに清げなりといふ声きこえにけり。たそとおどろき声のする方へ顔を向けば、そこには麗しき小姓立てり。童女はあさましと覚え、そのさまゆかしとは思へど、そこはかとなく小姓の顔より目をそらしてけり。
 舞を習へるやと小姓の尋ねしところ、はつかに頷き、かたはらいたかりけむや、ひたぶるに俯きにけり。また会ひにきたまへと小姓言へど、ぎこちなく笑ふばかりに、小姓と目も合はせざりけり。
 次の日も童女は湖の前にうち出でけり。いまここには来じと思ひたれど、いたう気になりぬれば、そこはかとなくありけるところ、おのづからこのかたにたどり着きけむ。小姓なほ昨日と同じかたにて、待てるぞと言ひけり。かかる寒きかたに一人あるはあやしければ、童女は小姓を怪しがれど、清げなる声を聞けると慣るること稀有なりにしに、語らふが楽しと覚え、気がつかばおのれの身上の物語もするやうになりにけり。
 我は先々の五節の舞姫に選ばるれど、その日はいと暑くみけしきもわろかりしため、果てまで舞ふべからざりき。めでたき行事をさんざんにしぬれば、みかどとのことうせにけり。我は家人辱めてけるなり。世話になれる乳母に妬まれに、春にならば追ひいださるるあらましなり。さいはひ、寺の僧に見扱ひもらふべきことになれど、来年より白拍子にて行脚すべしと言はれき。また舞にうき思ひすまじければ、ここに一人習へるなりと童女は言ひけり。
 小姓はただ頷きてほそく冷たき手握り、また会ひにきたまへとばかり言ひけり。
 それより童女は日ごろ小姓のもとに来べくなりけり。小姓舞を日ごろめで、果てにはまた会ひにきたまへと言ひにけり。童女は楽しみにしたれど、いかがせりものか日ごろその顔を見るべからざりけり。
 湖の凍るほど寒くなりしほど、童女は例のやり来れど、小姓のさまを見るなりその場に臥い伏せにけり。小姓こはいかがせりものかと思ひて駆け寄り、童女の前にゐ込みけり。
 けふはすずろにねぶたしと童女が目を閉づを見、小姓あさましと覚えいたましがりて、何かおきてむ面持ちに、童女の来し道を辿りて歩みゆきけり。
 童女おどろくと、そこは童女の家なりけり。されど、きはには誰も居らず、日ごろ罵りをこにする乳母の声もせざりけり。いかばかりか心解けれど、なほあやしと思ひ直し、おのれの行ひ考へ直しけり。思ひ返す中に、童女みづからが湖の際に倒れしためしを思ひ出しけり。誰が我をここまで運びきけむ、小姓ならざらむや、と童女、木戸をやはら開け外に出でけり。
 童女目差を上ぐと、おどろきしかなと声せり。さて初めて小姓の顔を見き。
 小姓の顔はいと麗しく、その肌はひとへに雪のごとく、童女をまもる瞳はひとへに滴のごとくありけり。かくて、そのさま形は童女にいとおぼえけり。童女おのれさながらの小姓にあきれ、きみはされば誰なるやと尋ねけり。ようせずは、これより前に会ひしためしがあればはないかとは思へど、小姓はその案にいらふるやのごとく微笑みて、そのいらへはなれが最もよく知るべしと言ひけり。おどろかば童女は押し倒され、雪の上にのいふしたり。
 お前を虐ぐる者はいまあらぬ、お前を苦しむるものは何もあらず。お前はいま自在ぞ。小姓の声、よく聞かば童女のに覚えけり。あさましくて声もえ出ださぬ童女、やうやう小姓の色おそろしくなりにけり。これまですがらに、お前は我ともろともにありき、これよりもすがらに同じぞ、と小姓言ひしに、童女、君は誰そ、我は君のことをつゆも知らず。知れべきぞと小姓童女の頬を撫でつつ、にこよかに笑ひけり。君は我に、我こそ君なれ。
 童女やがて際なりし小枝を持ち、小姓の麗しき顔に振りかぶりけり。
 氷の割れむ大いなる声に、童女はおのづから目を閉ざしけり。やはら目を開くと、先までありしおのれの屋敷ならず、日ごろ小姓と会へる湖のかたはらなりけり。かくて童女、その湖の氷を小枝に割れりけり。
 それより折節は巡り、山の春の気色に満たされしほど、童女は笠を被りて山を降りたりけり。花の咲く山道いと麗しく、童女の足取りも軽かりけり。背丈は少しばかり伸びたれど、麗しきかたちはうつろふことなく、すれ違ふ人より扱はるるほどなりけり。されど、童女いづこか憂へを帯びしけしきに、心もとなと遠く眺むるばかりなりけり。
 ふと童女顔を上ぐと小鳥を見つけけり。目の前を飛びゆきし小鳥に、こはさだめてと思ひけり。

あづさゆみ

「あづさゆみ」は和歌において「はる」「たつ」「音」などをみちびく枕詞です。
春につなぐ物語という意味で、本作をあづさゆみとしました。
終点を描くものではなく、始まりの意があります。終盤の絵のひらけた空気を感じていただければ幸いです。

五節の舞

 一年の収穫を祝う新嘗祭(天皇が即位した年は大嘗祭となる)にあわせて演じられた舞を、五節の舞と言います。平安時代に栄えた行事で、日本で唯一女性が舞う雅楽でした。当時、高貴な女性が姿を現すのは良しとされていなかったため、比較的身分の低い貴族の若い女性が高級貴族の代理として、新嘗祭では4人、大嘗祭では5人選ばれていたそうです。
 舞を捧げる舞姫に選ばれることは大変名誉なことでしたが、舞装束などの準備に莫大な費用がかかり、その家の大きな負担となりました。しかし、舞を捧げることによって高貴な方、ひいては帝の目に留まることもあり、それによって家のものが地位を獲得することも可能でした。そのため、どんなに費用がかかろうとも、舞姫の準備は厳めしく整えるのです。

 本作の少女は舞姫に選出された低級貴族の娘の一人です。容姿端麗な少女が帝に見初められるのはほぼ確実でしたが、少女は舞の最中に倒れ、違った意味で目を引いてしまいました。実は、当時五節の舞を最後まで無事に終えることは難しく、体調不良で下げられる舞姫も少なくなかったのです。少女もその一人であり、とうとう帝の側で寝ることは叶いませんでした。
 一族、そして本来選出されていた高級貴族に恥を掻かせたということで、少女は冷遇されるようになります。次の春には家を追われ、寺に引き取られる予定になっていた少女ですが、そこでも満足に面倒を見てもらえそうにはありませんでした。
 そして、少女は白拍子として暮らすように言い渡されます。

白拍子

 白拍子とは水干を着た女性が今様などを歌いながら舞うことで、同時にそれを演じる芸人のことも指します。
 巫女舞が起源とされていますが、時が経つにつれて遊女とへと転化したものが広く白拍子と呼ばれました。
 また、男性の白拍子も存在しましたが、女性のそれとは異なり、無伴奏で即興の舞を披露するものだったと言われています。この場合は素拍子とも記されます。

本文について

 少女の衣装は源氏物語の夕顔の襲の色目を参考にしています。(何色か足りないけど)最後の場面での衣装は、花散里の襲の色目を意識しています。また、p.14~15の背景の色は萱草という花の色です。

 本文に登場する鳥はウソという鳥です。嘘という意味ではなく、口笛を吹く・詩歌を小声で吟じるという意味の「うそむく」という言葉から付けられたと言われているそうです。最後に飛んでいく鳥もウソです。
 鳥を描くにあたって、生物分類学を専攻している友人に作画監督をしてもらいました。図鑑を貸してもらったり、鳥に関する知識を教えてもらったり、とにかくサポートが手厚かったです。偽名でも奥付に名前を出してほしくないとのことで、本には何も書いていませんが、いっぱい助けてもらったということはここに残しておこうと思います。

和歌

 このページの冒頭に、本文に載せる予定だった和歌を記しています。
「梓弓はる芽に散りし うそぶくはいはれぬおもひ花にせばやと」
初句の梓弓は「はる」を導く枕詞。「はる」は春と張るの掛詞です。
 現代語訳は「春に伸びた芽の上に散った桜よ。小さく詠むには、言い切れない思いを花にしたいなあと。」こんな感じになるはずです。