ずっとPCでサイトを編集していたのですが、最近初めてスマホでの動作を確認しました。iPhoneで確認しましたが、なんか上手くいってないようですね……表示が微妙に違うのと、フォントがダサくなっている。フォントに関しては、デフォルトのアルファベット用のものを使用しているので、日本語表記でおかしくなってしまうというのは仕方ないかもしれません。このテーマはフォントを変えるのにプラグインを使用しなければいけないようなので、時間があるときにぼちぼちいじってみようと思います。しかし、PCで見たときに可動式(ページをスクロールすると画像の表示範囲が変わる)になっている画像が、よくわからん切り取られ方で静止してしまっていたり、ギャラリーの画像が拡大表示できなかったり、いろいろと問題があるようです。iPadでも同じようなことになっていたので、もしかすると、アップル製品との互換性が無いのかも……まあ、出来る限りやってみます。
お正月にドタバタしていた関係で帰省できなかったので、来月の末くらいから実家に帰ります。年末年始の労働地獄で初めて「帰省したい欲」に駆られることになり、勢いで家族に「2,3月に帰る!!」と伝えました。妹も親もびっくりするほど淡白な返事(うん。そうなん。お土産は食い物以外要らん。という感じ)でしたが、それが逆に安心できるいつもの感じで良かったです。散々仕事を辞めきれない自分のせいでつらいのだと思っていましたが、多分対人関係に疲れているだけなんだと思いました。接客でも授業でも、学校生活でも、当たり前に人と関わっていかなくてはいけないのですが、それがもう面倒臭くてしんどくて堪りません。SNSから離れて戻れなくなってしまったのも、とにかく人との繋がりが面倒になってしまった(一過性!本当に今だけなんです……)のだと思います。そこに自分の労力を割けない……ほんとに頑張れない。人との付き合いはとてつもない精神力を使う作業なので、完全に一人の時間が無いとおかしくなってしまう。今は、睡眠時間以外の時間が全て人と繋がっている時間なので、それが耐えられなくて他のことまでイヤになっているのだと思います。というのは今日の本題ではないので、またいつか書こう。
どうやら同居している祖母がとにかく私の帰省を待っているらしく、年末には干し柿の保存場所に関する連絡が来ていました。祖母は「おばあちゃん」と言うには若過ぎるほどパワフルで変わった人で、ものすごく人情に厚く、子や孫の好物を丸暗記していたり、誰といつどこに行ってどんなことをしたかというのを絶対に忘れなかったり……一口に言えばとんでもない人です。
今回は、私が好物の干し柿を食べられないというのを可哀そうだと思ったのか、「裏の冷凍庫に干し柿を袋いっぱいに冷凍しているから、他の奴に見つからないうちに持って帰るか食べるかしなさい」という趣旨の電話でした。直接帰って来いと言わず、好物で釣ってくるのがズルいですね、祖母らしくて良いです。裏の冷凍庫(ちょっと生活スペースから離れた倉庫的なとこに置いてる)なんか誰も確認しないので、いつ帰って来てもいいよということの裏返しなのかもしれないです。確認してないのでわかりませんが、多分信じられない量の干し柿が眠っています。食べきれるのだろうか。
田舎だと、どこの家にも一本くらい柿や金柑の木があり、小中学生が下校時に腹ごしらえするような光景はよくあります。大学の授業の一環で地方の子供たちに話を聞く機会があったのですが、その時も同じような光景が見られました。小学生数人が柿を齧っているのを見ながら、地域住民の方々が笑って「その実ができるまで何年かかるか知っているか」と言う冬景色……住民の方からすれば何気ない言葉だったと思いますが、私は実家の柿の木を思い出して、居ても立ってもいられなくなってしまった。
前々からぽつぽつ書いているように、自分は人の中に残り続ける記憶とか思い出に興味があって(高校の時友人が書いてた論文に感化されてる部分もある。そして創作のモチベでもある)時間とか人の内側にある思考の記録とかに惹かれます。住民の方の言葉を聞いて、目の前にある柿の木や実家の木が育つまでの景色というか、そこにあった物語が確かにあるんだなと思うとなんだかエモくて、一人で勝手に限界になって泣いてしまう奴になりました。柿って本当に長い時間をかけないと実が成らないらしいのですが、実家の木はクソデカい上に食べきれない量の実が成るので、本当に昔からこの場所で大事にされてきたんだなと感じられて胸がいっぱいになる。最近は授業で子供の成長過程の記憶のことや、文献ごとの記録に混じる筆者の意図とかのことについて考える機会があり、毎度限界になって号泣しています。なんかこの手の話題に弱いんだよな……今読んでいる本で、カール・サバ―『子どもの頃の思い出は本物か』という自伝的記憶についての本があるのですが、本当に面白いです。面白いし、最後の一文で精神が駄目になりそうだった、良すぎて。やっぱり私は伝承される「思い出」や「感情」のあしあとについて文学の面から考えたいと強く思いました。もう少し読んでから、自分の創作への想いとかも合わせて書きたいですね。お絵描きあんま関係ないかもしれないけど……時間あるときにまとめて書こう。
桃栗三年柿八年とは言いますが、成長速度なんか気にしてもしかたないよなと思ったり。何につけても成長の遅い私は、小さい時にこのことわざで励まされたことが多々ありましたが、その度に「そうじゃない!」と内心ブチギレていました。「成長が遅くても大丈夫」と言ってほしいんじゃなくて、私の「成長過程に意味がある」と言ってほしかったような気がします。成長遅くてもいいよって、ある意味成長の早さの価値を認めてるじゃないですか、まあ間違いは無いかもしれないけど……桃も栗も柿も私も、成長する日々の一日一日に出来事があって、その一つ一つに対して無数の記憶と思考が存在する。私は自分のフィルターを通して見た出来事の記憶を大事にしたいなと思います。そんなこと言ってたら、人生がいくらあっても足りないけど。