最近久しぶりに小説を読んだのですが、自分の好きな展開ではなかったことも相まって、読後感は良くありませんでした。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説です。場面の空気感はとても好きだったのですが……村上春樹、いつかちゃんと楽しめるようになったらいいなと思います。そういえば、高校の時に海辺のカフカを読もうとしたのに、途中で本を閉じたっきりになっていたのだった。マジックリアリズム、みたいな名前がついていた気がするのですが、あの世界観の作り方が体調が悪い時に見る夢みたいでどうも苦手です。余談ですが、まったく同じ理由で「ちいかわ」が苦手です。知っている町で迷子になったような感覚になる。私の感性と理解力がお子様なせいで……それにしても、著名な作家の本を面白く思えないのは、逆張りみたいでダサいし、読解力が足りないと言われているようで、なんか悔しいですね。読書って別にステータスではないのだけれど。
塾講師のアルバイトで文学史を教えることもあるのですが、その度に一定数の生徒さんから文ストの話を振られます。私は文ストの鏡花ちゃんが可愛いということ以外一切知らないので適当に流してしまうのですが、お世話になっている理系の先輩が生徒さんと文ストの話で盛り上がっていて、少し興味が出てきました。
いつも不思議に思うのですが、文ストから文学や文豪に沼る生徒さんが想像以上に少ない気がします。元ネタ(というと不敬かもしれないけど)の文豪を調べて、その作家の作品を読み漁ったり、作家同士の関係性にハマったりしている生徒さんを見たことがありません。それどころか、文豪の話題を振ると、アニメの話で打ち消されてしまう(私の話下手が祟っているのかもしれない)。例えば、文ストの話題が飛んできたときには必ず、泉鏡花は男性作家なんだからな!という趣旨を伝えるのですが、そのことを全く知らないだとか、そんな風に思いたくないとか言われる。多分彼ら彼女らにとっては文ストが原作で、文豪が二次創作に近い存在なんだろうなと思いました。
私は文豪過激派ではなく、むしろ文豪エアプ勢なので、文学に興味がない文スト好きもそれはそれで良いと思います。重要なのはそこではなくて、物事にハマるプロセスが違うオタクがいるのだ、ということ。自分はこれを忘れがちで、全部自分と同じように沼に入っていくものだと思い込んでしまい、人を不快にさせることがままある気がする。
前に、文学部に行けば好きな作品やコンテンツについてオタク語りし放題で大学が楽園になる、という話を理学部の友人にしたところ、それは原作至上主義で根拠をもとにした考察が主のオタクに限ることで、自分たちは原作から脱線した妄想と捏造からなる“自分たちだけの最強コンテンツ”に溺れているだけなのだと、それはそれは熱烈に語られました。もちろん、素晴らしい原作を生み出した作家には頭が上がらないが、それを如何にして調理して味わうかは自分次第であって、作品そのものよりも自分の妄想が大事!と言われて、それが健全な日本のオタクなのかもしれないと納得してしまったよな。コミケなどの二次創作文化は確実にそちら側が優勢だし……
自分は考察厨で設定厨なので、元ネタを調べ上げて小ネタを見つけたり、キャラクターに対する解像度を極限まで深めていったりすることが好きです。ノートに世界観やキャラクター同士の関係性を整理していくくらいには、原作に忠実な考察が好き。ただし、作家独自の設定がある二次創作が嫌いなわけではなくて、過度な下ネタと原作以上の残酷描写が無ければ、なんでも美味しく頂けてしまいます。現パロとか幼児化とか結構好きです。自分に地雷が無いので、相手も自分の考察を聞いてくれるものだと思い込んでいる節があり、相手が興味の無い考察をダラダラと聞かせてしまうことがあると思いました。こう書くと、自分って最悪な迷惑オタクだな……慎みます。
私は、あるコンテンツから自分が新たに設定を構築する二次創作をする代わりに自創作をしているのかもしれません。どっちのオタクにしろ、無いものは作ればいい、というパワー系の発想は変わらないんだよな。オタクよ、今あなたが作っているものはきっと他の誰かにも刺さるから、手を止めずに作り続けてくれ……