結局働いた……なぜかお休みじゃなくなって働いていました。流石に四週連続勤務は初めてですね。去年の36時間連続労働よりマシですが、精神的に余裕がなくなります。扶養外れそうで恐ろしいです。業務内容が楽になったからと言って、無茶苦茶なシフト申請するのはよくない。私の時間が全くなくなる。逆に、こんな無茶苦茶なタイムスケジュールでも授業に出て課題も出して、絵を描いてアニメに手を出して書道をしてバンド練習をして作曲を手伝っている自分、我ながら凄いと思います。そろそろ自分を追い込むのを辞めないと、このままでは“最強”になってしまうぞ。
『平家物語』の講義を受講しているのですが、忠度都落の章段についての話を受けて一人で悶絶していました。実は今、この章段をもとにした創作の絵を黙々と描いていて、あわよくば動かしたいなぁとぼんやり考えています(本当にやるとは言ってない)。そんな中で講義で取り上げられたもんだから、嬉しいやら恥ずかしいやらで思考がこんがらがってしまった。
忠度都落は、歌の好き人(何らかに熱中して打ち込んでいる人)である忠度が、一の谷の戦いの敗北により都落ちする道中の話です。忠度は、次の勅撰集(千載集)の撰者である俊成のもとを訪れ、自分の歌を一首だけでいいから入れてくれと頼みます。ああ、素人の癖に語りだすと止まらないので、詳しい内容は割愛させてください!中高生の教科書に載るくらい有名な章段なので、検索すれば良い要約がゴロゴロ出てくると思います。この章段、和歌(題が「故郷花」となっている、泣く)が良いのは言わずもがな、私は忠度が去っていく際に口にする漢詩が(背景も含めて)好きです。ちなみに忠度は討たれる時もすごい……これも有名な章段で「忠度最期」と言います。これ高校で読んだときガチ泣きした。この世は無常。
平家一門の栄華と衰退についての話をしたかったわけではなく、平家物語のテーマは無常ではなく「祈り」だったのではないか、という話をしたいのです。そして、その祈りはどこへいくのかということ。国民の心の古典である平家物語に、自分のつまらない考え事を重ねるのは非常に恥ずかしいことなのですが、創作についても通ずるところがあると思いました。
数年前に放送されていたアニメの平家物語のキャッチコピーが、確か「千年の『祈り』の物語」となっていたような気がします。制作陣のお話などは聞いていないので何とも言えませんが、私はこの祈りが鎮魂であるように思えます。無常観漂う作品の中で、登場人物が一時の願いを口にする様子は、大抵が滅びゆく平家を知っている者の視点から描かれた、叶わぬ祈りのようですが、登場人物の願いだけではなく、むしろ語り手の視点こそがこの作品における大きな祈りであると私は考えたいです。アニメであれば、びわの視点ですね。「そなたらのこと、必ずや語り継ごうぞ」の視点。流布本である覚一本(最も一般的な平家物語)では、度々語り手の気持ちが地の文に反映されています。物語としても非常に凝ったストーリーになっていて、わかりやすく感動的な美文です。史実ではない、これが語り継ぐということ……史実とは異なる創作物として叙情的に今日まで語り継がれた物語には、物語でなくてはならない理由があったと思いたい。史実を曲解させた人の想いの部分、語り手の祈りが語り継がれたと思いたいです。なかったことにしたくない、ここにいたのだと伝えたい感情が、感動的な物語を作った……(しかし!自分は専門家ではないので、適当なことを言っているに過ぎません。学問的に怒られる可能性さえあるようなことを書いているので、これが正しいように捉えないでください。)
大分前(数年前)に、自分の創作に関して、美化される記憶や思い出の悲観的な話をしたのですが、その移り変わる記憶が自分や他人を作っているのだと思えば、事実とは違う部分に悲観的になる必要は無いなと思いました。変わってしまうことは別に寂しいばかりではないなと。それらを噛みしめながら歩き続けること、それ自体がある意味で祈りだと思いました。春と歩き続ける、を描きたい。それと大学では、語り継がれた物語と、語り継ぐという行為そのものに関する研究をしたい……
アニメの平家物語、ぜひ平家物語の概要を知った上で見てください!いつでも概要語れるので気が向いたら聞いてください!勿論、映像もストーリーもあり得ないくらいの完成度なので、何も知らなくても面白いです。なにより羊文学の主題歌が言い尽くせないほど美しい……当時高校生だった自分は、このアニメに猛烈に感動して大学では必ず古典を学びたいと誓った。とにかく見てください。