完璧な

 お久しぶりです!本当にお久しぶりです!3週間の連勤を終えて、梅雨も明けて、体調不良も治りました!とりあえず実習も終わったので、あとはレポートを書きまくるだけです。頑張るぞ、やるぞ!

 羊文学の新曲Birningをリリース直後に聞いたのですが、どうしようもなく揺さぶられて気がおかしくなりました。

 押しの子のエンディングテーマなんですね。呪術廻戦しかり、アニメの描きおろしが多く(売れ線狙って書いたんだろうな…)と複雑な気持ちではいるのですが、私は単純なので簡単に感動して涙腺崩壊しました。“誰を許せないの?”でもう駄目だった……“愛したいものから壊して失う前に手放してしまえばいいと思っていた”の部分で声上げて泣きましたね。他人の創作物に自分の考え事を重ねるの屈辱過ぎるんですが、耐えられませんでした。
 羊文学は憧れと悔しさに焦点を当てながら「それでも前へ」を描いてくれるところが本当に好きです(そして悔しい)。この曲に関しては、最後の歌詞は押しの子を観ていればゾクゾクするような感じになっているのでしょうか……舞台裏の聞き手無き独白、泣いてしまう。

 この曲を聴きながらぼろぼろ泣いて考えたのですが、表現の中には、光の中で一発勝負で表現するものと、陰で黙々と継続して表現するものの二種類があるような気がします。押しの子で言えば、舞台になるのでしょうか。勿論、公演本番まで練習を積み重ねるのだと思いますが、人前に出るのは一回きりで、良くも悪くもその一回の結果が全てのように見える。同じタイプのものに、スポーツや音楽関係のことも含まれると思います。もう一方は、限界まで極めた成果物が確実に人前に出される、ある意味で一発勝負ではないタイプの表現。絵や書道は後者だと思います。
 それぞれにそれぞれの苦悩があると思うのですが、自分は一応両方を経験しているつもりでいるので、その性質の違いに目を向けながら、OCの解像度を上げていきたい、というのが今回の日記です。

 一発勝負の表現に関して、自分は体操の演技や書道パフォーマンスで経験したと思っています。表現ではありませんが、各種スポーツの試合にも同じような性質があると思います。
 忘れがちですが、これらの一発勝負で一番重要なのは自分の身体です。これは間違いなくそうだと言えます。自分から出た成果物を発表するのではなく、他人の前で作り上げるものなので、本番当日に自分の身体が仕えない状態であれば、そもそも表現するに至りません。そういう面で、運要素も強いのではないかと思います。予防していても、自分のせいでなくとも、病気にはなるし怪我はしてしまうものなので。
 また、個人差はありますが、絶対に失敗できないというプレッシャーが強いのもこちらだと思います。本番の前にどれだけ練習を積んでいても、その一回の演技が全てで、失敗しても「もう一回」が無い。本番の一回で最大瞬間風速を記録できるように持っていくための練習、というのが特殊だと思います。「前にやったときはもっと良かった」というのは言い訳に過ぎない。
 一方、成果物を見せるタイプの表現は、最悪自分の身体がグダグダでも、良し悪しを問わないのであれば発表はできます。健康でないと打ち込めないし、作ることもできないほどのことがあれば、何もできないまま終わってしまいますが……少なくとも、定められた日時に確実に健康でいなければならないということはありません。そして、こちらは人前に出すものを自分で選べるということもあり、実質「もう一回」を無限に行うことができます。ただし、これらのことがあるからこそ、絶対に言い逃れできないという性質があると思います。一回きりではないので、全てが本番。最終的に人前に出る作品は、たとえどんな出来でも、その時点で自分が出せる最高峰の作品ということになります。また、基本的に作品の中で嘘をつくことができません。誤魔化しが利かないという面では、自分自身に限りなく近いものが出てくると言えると思います。
 そして、この二種類の表現に共通することとして、人前には見せない努力の面は評価対象にならないということが挙げられます。背景の個人的な事柄が、後々エピソードとして話されたり、創作に影響を与えたりすることはあれど、それが大会やコンテストなどの公平な評価に影響することは無く、あってはならないとさえ思えます。(もちろん、個人的な評価や研究などでは、創作者の背景は非常に大切。)

 OCの双子はずっと書道をしており、陰で創作物を作り続ける方の表現者です。しかし、二人に明確な表現者としての自覚のようなものは無く、単純に競争をしている感覚だと思います。とにかく良い評価を得るために、常に自分の中で最高なものを発表し続ける。努力の部分は評価対象にはなりませんが、陰での研鑽がある意味で本体であると言えるかもしれません。
 嘘がつけないという面で、閖柯の方は書道に対してぼんやりとした居心地の悪さがあり、毎回当たり障りの無い作品で綺麗さを追求していると思います。自分の意志で○○を書きたいというのではなく、定番の作品の臨書を着実にこなしていく感じ。萱乃の方は、兄のような考えは一切ないのですが、自分の全力がいつも兄に届かないことで、評価や結果に対して卑屈になっています。しかし、萱乃さんの中では書道がアイデンティティにもなっているし、なまじっか他人よりはできるという自覚と自信はあるので、諦めるという選択肢は微塵もありません。ただ、兄に勝ちたいという気持ちもある一方で、結果に悲観的になってしまい、自分で自分の限界を定めてしまっている節もある。
 萱乃さんにとって書道は本当に自分と向き合える時間にもなっているのですが、その自覚はあまりありません。結局、書道から一定期間離れることになりますが、自分をどこにも見つけられないので、無意識に閖柯の真似ばかりするようになってしまう。もう一度筆を握って自分を見つける過程の中で、自分のまま兄の足跡を辿って、追い越していけるといいな……
 今、そういう絵をいっぱい描いています。私も本をつくること、まだ全然諦めてないから!法書を追加で四冊買いました。何が言いたいのか分からん日記になってしまったな……とにかく、来年の冬あたりに、春っぽい双子の本を出します。一人黙々と頑張っているこの時間が好き。