今日で学内のバイトは終わりです!この3日間本当に良い時間でした。基礎知識が皆無の分野の話が大半だったので、学びがあったかと言われると正直微妙なのですが、視野は格段に広がったと思います。自分より遥かに賢い人間が安くないお金を払って話し合うところで、自分は金を貰いながら話聞き放題という優越感に浸りたくて応募したバイトでしたが、想像以上に自分の内側にあるものを搔き立てられる時間でした。折角ここまで来たんだから全部吸収してやるからな!というガッツだけで話に食らいつき(そういうバイトじゃない、バレたら怒られかねない)、会場内の何気ない会話も盗み聞いては常にノートを取ってました。
視界が急に開けてくる感覚……高校の探求授業で初めて研究者の話を聞いたときに似ています。話が全く理解できなかったとしても、なんかワクワクするんですよね。知らない世界がまだまだあるぞと興奮する。ここ3日間はワクワクの繰り返しでとても良かったです。こんなバイトならいくらでも働きます。
サイトのSEO対策を割としっかりやってしまったせいで、特定のキーワードを打ち込むとしっかり検索に引っかかるので、具体的な話ができず本当にもどかしいのですが、できる限り書いておきたいと思います。そういえば、かなり前から日記のサイト内検索ができるようにしていました。記録として残り続ける文章を書くことに様々な不安もあったのですが、見返すことができるのも面白くていいですね。それはさておき。
全部話すと普段の10倍くらいの文章量になりそうなので、かいつまんで書きます。特に書きたいのは、小学生の道徳の授業を通して考えたことです。具体的な単語を使いたいのに、もう既に何も言えないぞ……臆せず言ってしまうと、一般に「意味がない」と思われがちな従来の道徳教育の意義を考え直したり、道徳の授業に哲学対話の考え方を取り入れた事例を見たり、ということをしていました。自分は教職課程を取っている身でありながら現代の教育に懐疑的なので、この概要を確認したとき、正直うんざりしてしまい、ここの業務担当いやだなとさえ思っていました。(補足しておきたいのですが、現代の教育に懐疑的な視点は教職を志す者や教育に携わる者からすると必要なことでもあると考えています。「現代の」教育を信じ続けることは、教育を変える気が無いというか、時代についていく気が無いことと同義だろうと思います。はるか未来をつくる人間を「今」教育していくということは、常に「今」の誰にもわからないことの手本として教員が存在しなければならないということで、教育の困難性のほとんどはここにあると私は思います。私がやる気ない立場ではないという言い訳でした。)この手の話題が美辞麗句にしか聞こえない病気なのですが、いざ聞いてみると冒頭から学習指導要領への厳しめの批判から始まり、自分の抱えていた疑問が全部さらされてしまったので拍子抜けしました。(報告:道徳科において「考え、議論する」教育を推進するために (scj.go.jp) 要旨2を参照)同時に、実際に教育してきた立場の方々や、偉い人たちがこれを把握してくれているのだと思うと、ちょっと嬉しかったです。
- 従来の道徳教育まだやれます:目指すのは単純価値理解ではなく、自己の生き方についての考えを深める学び
- 哲学対話を取り入れた道徳の制度と実践のはざまを考える
メインの話を私が勝手にまとめると上のような感じです。
言葉にすると本当に軽くなってしまいますね、実際の話の内容はこんなに薄くなかったのですが……都合上これ以上は書けません。悔しい。
この話の中で私が何に感動したかというと、実際の授業の中で小学生が見せる知の営みです。実際の授業動画を2つ見せていただいたのですが、本当にドキドキしました。子どもって、子どもってすごい……当然、授業方法は革新的とも言うべき研究的なものなのですが、内容としては一般の道徳でした。本当に普通の教材で普通の内容、正直面白くないです。しかし、子どもたちの思考を引き出すことができれば、ここまで面白い発言を見られるのかと感動しました。幼いころ特有の知の宇宙を垣間見た気がする。発言や仕草がキラキラしている……自分は教育学部ではないので、小学校教諭の免許は取れないのですが、自己を確立する過程を間近で見ることができる現場は楽しいだろうなと思いました。本当はもっと具体的なこと書きたいのですが、ふわふわした言葉でしか言えない……とにかく、子どもってすごいんです。子どもが先生なんだ……
もう一つ私が感動させられたのは、新たな試みを現場に持ち込む際に「うまくいかなさ」「ままならなさ」を捉え直す、という考え方です。フランスの方で「制度を使う」と言われる考え方で、既存の制度や活動などの慣習の在り方を考えて「うまくいかなさ」に着目するらしい(私が嘘を言っている可能性ある)。
例えば、生徒たち自身に発問してもらい、話し合いたい議題を選んでもらう時、それが指導要領からズレたものになってしまうと、対話が深まらず良い学びに繋がらない可能性があるという観点から、教師は不安になってしまいます。それは確実に「解決すべき問題」ともいえるのですが、それを単なる問題として一蹴するのではなく、そこに「哲学する」余地があると考える。(今後の道徳の授業では哲学的な学びや対話を取り入れることが期待されています。というか指導要領に既に書かれてます。ゆえに、道徳の授業に哲学をどう持ち込むか、という話をしています。)よくよく考えてみれば、生徒たちの考えた議題が少々ずれたものになってしまったとしても、生徒たちが話し合っているその空間自体が道徳として非常に大切なものと言えます。そこから、じゃあ何をどうすれば「うまく」いくのか、というのを考える。失敗したから何かが悪かった、何々が元凶だと排他的になってしまう必要は無い。実践の中でうまれる「ままならなさ」は純粋な一次反応であって、それを完全に防ごうとする必要は無く、この「ままならなさ」から新たな問いを立て、教員も問いに対して哲学し続ける必要があるという話でした。
この考え方は、教育方針として感動したとかではなく、自分の絵に対する態度を見つめ直す鍵となったので印象深かったです。絵を描く上での試行錯誤もそうなのですが、どちらかと言えば絵との向き合い方ですね。
以下は絵の話。
ここ数年ずっと、絵だけに真剣に向き合う時間を作れないことに対して苦しさがあって、この調子でずっと中途半端になるのなら、他の何かを手放してでも絵をやるか、一旦絵を諦めてその他のことに一生懸命向き合う時間をつくる覚悟を持たなくては、と考えていました。絵だけじゃない自分が苦しい。何もできないくせに何にでも手を出すから全部中途半端、どうせこのまま終わるのだと思うと、今まで頑張ってきたことすら何一つ認められなくなってしまって、取捨選択できない自分に原因があると思っていました。しかし、今回の話を受けて自分の「ままならなさ」を考えた時に、絵だけに特化した人と比べると自分は多角的に、より広い視野を持って絵を捉えることができるのかもしれないと感じました。それは忌避すべきことではないし、何かを諦める原因にもならない。むしろこれは長所かもなと。
実は結構前に似たようなこと(絵だけじゃなくとも良い的なこと)を某お絵描きYouTuberさんが仰ってましたね。でも、取り上げられていた方が既にべらぼうに絵が上手かったり、今までずっと真剣に絵を描かれていた方だったり、結局絵で上手くいっている人間だったりで、その時の自分にはどうしても嘘にしか聞こえませんでした。そもそも自分は、今やってること全部捨てたくない、全部同時に進めていきたいのだという、我儘欲張りの限りを尽くした問題を抱えているので、結論は同じだとしても発問自体に若干ズレがあったのだと思います。
不器用で、何をしても他人より下手くそで成長も早くない自分が、何かを人並みに習得しようと思ったら、他人の五倍の時間は覚悟しなければいけない。これは幼児期からずっと思っていることです。(今思えばとんでもなく酷いすりこみなんだけど、面白いし闘志を燃やしてくれるので好んで言ってます。私の自己認知が可哀想なことになってるわけじゃないです。)時間がかかるからこそ、何かを諦めて一つのことに集中する時間を作りたいと考えてしまうのですが、それは問題からの回避であって解決策ではありません。何かを新しく始める上で「ままならなさ」は当然のこと。考えれば、いままで私が必死になってやってきたことは全て無駄になんかなっていない、むしろ絵を描く上で助けになっている。だから、今こうして何も諦めずにすべてを追いかける姿勢は、結局絵を描く上でも役にも立つはずなんです。1つの事柄が単独で存在するのではなく、全ては連関したものになっているのだから。
何かを諦めるのではなく、何も諦めずに邁進することにこそ私の強さがあるのだと思います。言い訳に聞こえてしまうけれど、絵だけじゃない私には絵だけじゃないやり方や切り口があるのだと思う。どんなに遠回りでも足が遅くても、歩みを止めずに拾い続けることに意味があるのだと思いたい。これからも、寄り道しながらだらだらと進んでいきます。私は圧倒的研鑽の密度で下剋上を果たす、すっとろいカメ。