そういえば以前「この話は次回詳しく」とか言ってた話を放置していたので、この際ちゃんと創作の話をしてみようと思います。自分のメモも兼ねているため長くてバラバラとした、まとまりのない文章になっています。まあしかし、まとまりが無いのはいつものことなんですが……正直公開するのは恥ずかしい上に日記とは少し違うので、気が向いたら読むくらいでお願いします。
バカ長いのでもくじを付けてみたぞ。気が向いたら、好きなとこだけ見てください。
二人の描写
間接的な愛情の描写
前の前に書いていたことから書きます!その人に注がれてきた愛情が間接的にわかるのが好きという話。
外面的な性癖ではなく、人物・場面描写のフェチです。今を生きる上で何かしら抱えるものがあって、後ろ向きになりがちだったりナイーブだったりする人は多いと思う(し、現代みんなそうじゃんと思ったりする)のですが、その日々の中で過去に与えられた温かいものがその人を支える何かになっている事実に気付くのは、意外と難しいことなんじゃないかと感じます。だからこそ、客観的にその事実を見つけると嬉しくなるし、他人のそういう面を見て「あぁこの子は大丈夫だ」と、根拠もなくちょっと安心します。具体的に言えば、自己肯定感が低くないとか、何かを褒める言葉をちゃんと言えるとか、直に過去の嬉しかったことを語ってくれるのも当然好き。以前、日常の何気ない仕草に育ちの良さが垣間見えるような描写が好きと言ったのですが、これも似たような感じです。本人に自覚は無いけど、その人の根底でその人をずっと支え続けているものが透けて見えるような描写が好きなんだ。
萱乃さん(OC)もこれを意識しています。彼女は基本的に無気力で事無かれ主義ですが、割と正義感が強くて、たまに他人のために動きます(たまに)。たとえ歪んだ環境に置かれていたとしても、まともな価値観がちゃんと形成されているところが大事。兄に対して特大の劣等感を抱いていますが、自己肯定感が地を這っていることはないというのも大事なポイントです。あくまでも、兄に追いつけない(と思い込んでいる)だけであって、自分に対して絶望し切っているわけではない。また、足癖や口が悪くてもお行儀は良いところもこだわりです。口が悪い描写は、文字にするとわざとらしくて苦手なんですが……本当に口が悪いんです、びっくりするくらい。地元住民が「おぉ……」となるくらい、きつい言葉(方言)を使います。でも、なりふり構わず話しているのではなく、最低限の時と場合をわきまえている。そういう教育を受けている。ここでいう教育が“何かを強いられて叩き込まれた教え”ではない、というのが重要です。後述しますが、誰かに強いられたり、切羽詰まって仕方なく身に付けたりしたことは、全然好きになれません。それは逆に見ていて不安になる……閖柯さんが不気味なほど“できた子”なのは、萱乃さんのとは違います。
萱乃さんは自分が愛されているということに対してかなり自覚的である、というのは補足しておきたいです。家族からも先生からも大事にされているという自覚があり、兄と相互依存関係にあったという自覚もある(それが原因で自分のことが何もわかんない、というのはあんまり気付いてない。後述します)。自覚があるというより、段々と分かってきたという方が近いかもしれませんね。飄々と何事にも我関せずの表情をしているくせに、内面はあらゆることに敏感。不器用に器用な生き方をする人間、好きだ。
完璧な歪み
追い込まれて仕方なく身に付けた振る舞いが怖いという話。
さっきは主に萱乃さんの話をしたので、お兄さんの話をします。私の文章や絵が下手くそなせいであまり伝わらないのですが、閖柯さんは不気味なほど完璧で、その不気味ささえも伝わらないほど立ち回りが上手です。そういう人間のことは分からないから書けません。何事も知っている範囲のことしか書けないから……イメージとしては物語シリーズの羽川翼です。その完璧な立ち回りに気がついた瞬間にゾッとする感じ(誰も気がつかないんですが)。
閖柯さんは頭が良いので、知らなくていいことまで色々察してしまい、早々に人間不信を拗らせます(賢いのに物凄く子供っぽいのが玉に瑕、そこが良い)。幼少期から物事を知覚する能力が高く、世界の解像度が人よりも(雑に)高かったからこそ、妹の純粋さが本当に尊いものとして見えていたのだろうと思います。そこに憧れや嫉妬を抱きながらも、守ろうと必死になる。(物事を見る視野は広いはずなのに、目標は狭い狭いところにあるという……)妹のために早く大人になろうとする。そこにはある種の傲慢さがあるのですが、たとえそうでなくとも“賢すぎる子供”にはならなかっただろうと思います。
ちょっと話が逸れましたが、閖柯さんは子供の発達段階に沿って順序良く成長したわけではなく、無理に早く大人になろうとして、それがたまたま上手くいってしまったから危なっかしいという話です。その異常性を見せない計画性も怖い。不必要なことを「そうせざるを得なかった」という理由で自分のものにできてしまうのが怖いと感じるし、少し可哀想だとすら思える。不安になります。萱乃さんが不器用に器用なら、彼は器用に不器用です。不器用さまで計画の内。
その歪さに気付くとすれば、それは萱乃さんに他ならないのですが、彼女は兄を崇敬しているので、その行動の真意をぼんやりと分かっていながら咎めるようなことはしなかった。そこが彼女の歪みでもあるような気がする。
創作で描きたいこと
今についての話
これは前のウェブサイトにも書いていたことで、今のサイトの創作ページに書き足そうとしていることなのですが、固定ページにするのは何だか気恥ずかしくてずっと放置していました。良い機会なのでここに書いておきます。いずれ創作ページにも書きます。
「今だけ」の我慢をするのか「今だけ」の楽しみを得るかという二択で、後者を選び続けたのが萱乃と閖柯だと書いたことがあります。そもそも私は「今だけ」なんて存在するわけが無く、何かにつけて「今だけ」だと言っていることは必ず永遠になってしまうと考えています。だから「今だけ」の楽しみや幸せを積み重ね続けたら、楽しい時間がずっと続く。しかし、当然ながらそんなことは現実的ではないような気がします。というのも、人は完全な「今」を感知できない生きもので、過去や未来の概念がある私たちは常に過去の経験から未来についての選択を行うことで「今」を積み重ね続けているので、「今だけ」の幸せは実は常に未来のことを指しているし、そのためには幸せな過去を積み重ねる必要がある。したがって、ずっと幸せな時間を過ごすためには、起こりえる全ての不安な未来に目をつぶって、過去の幸せだった時間の経験から推測した選択を繰り返すか、未来の不安要素を潰していく必要があります。「今だけ」の幸せのために、あらゆる不安要素を見なかったことにしたり、適当に誤魔化したりして、ギリギリの幸せを保ったのが閖柯さんと萱乃さんです。
相補的関係と自己認知
萱乃さんは兄の能力の高さを尊敬していると同時に羨み、特大の劣等感を抱いています。閖柯さんは妹の純粋さを尊いものとして見ている一方で妬ましくもあり、どこまでも「妹」でしかない妹にやり場のない羨ましさを感じています。二人とも、無いものねだりで自分の中に幸せを見出せず、互いに依存して相手の瞳の中にある確かな自分を感じて安心する。相手との差異や相手からの憧れの視線が、勝手に自分をつくっていく。羨み妬んで、それでも互いに縋りついてしまう……お互いのことを本当に好きだったはずなのに、それが本当に純粋な愛情だったのかはもうわからない。歪んだ自己愛とも言えるような気がします。それでもお互い確かに好きなんです(恋愛感情とかではない)。
自分たちはどこかおかしいと二人とも気付いていたのに、その事実には見向きもせず「今だけ」の幸せを選択し続けられたのは、全ての不安要素に蓋をしたからです。何かを隠し続けるのは本当に難しいけれど、嘘をつくのは簡単なので、自分に嘘をつき他人に嘯けば、それらは無かったことにできます。噓から出た実という言葉がありますが、嘘は気付かれなければ本当になる。二人の発言は嘘と本当の境界線が曖昧だと書いたこともあるのですが、それはこういうことです。結局、二人は「今だけ」の幸せの辻褄合わせのためにその他すべてを犠牲にしている。
すべてを犠牲にしても幸せなら良かったんですが、見て見ぬふりをしていた未来が訪れない保証は無いので、どうしようもなくなるときはあります。沢山の嘘と真実は本当に永遠に消えることになって、自分の存在すらも持っていかれた萱乃さんの自己認知がままならないのは仕方ないことです。自分の中には過去の兄の姿が残っているけれど、それすら本当かどうかわからないし、過去はどんどん風化して美化される。今あるものを繋ぎとめるために、過去の兄の足跡に足を重ねるようにして追い続けるのも、本当に自然なことだと思います。だから必然的に閖柯に似ていく。何を追っているのかもわからなくなる。
何もかも見失ったと感じるとき、前に進む自分を支えるのは過去の思い出だなと。私は人生十余年の短い時間を過ごしてきて思います。(いろいろ科学的根拠はあるだろうが、)過去が自分にとって都合良く美化されてしまうのも、美しい過去に自分が背中を押されてしまうからだと思えます。美化された過去も、嘘をついた過去も、本当のことが何ひとつわからない過去も、完全に消えてしまうわけじゃない。白紙になった、みたいな表現がありますが、これまで自分が積み重ねてきた時間は急に消えたりしないし、自分の中にも他人の中にも残り続けます。それらは嘘じゃなく、本当に存在した時間です。見失ったと思い込んでいるだけで、確かに手の中にある時間。その時間に気付いたとき、過去の道筋すべてをひっくるめて全部自分だったのだと、ようやく言えるようになるんじゃないかなと思います。過去は本当に綺麗で、立ち止まって振り返って戻りたくもなるんだけど、それらが自分の背中を押して美しい思い出を作り続けているのだと思うと、頑張って進もうかなとも思える。やはり「今だけ」なんてものは存在しない、全部が未来の自分のための過去です。それを創作で描いているつもりです。
刹那的な春
度々、私は本当に春が好きなんだと語っていますが、それも創作で描きたいことの一つです。最近、春は過去と未来が混在するような季節だなと友人と語りました。また、高校の時に夏目漱石『草枕』についてエセ論文を書いたのですが、その時に春は「憐れ」そのものであると再確認し、ますます好きになってしまいました。
「春は、主人公の『憐れ』な美的世界そのものであり、主人公の『非人情』な視点と主人公自身の考えを同じ空間に留めるための溶媒なのである。」
我ながら臭くて最悪な文章なんですが、こんなことを書いていましたね。(この論文もどき本当に黒歴史なので、いつかどこかに貼り付けて誰かに笑い飛ばしてもらいたい。じゃないと余計に恥ずかしい!)主人公は生きづらい俗世から離れ、人情を介さない「憐れ」な世界に身を置きたいと考え、自我を引き離して徹底的に客観視する「非人情」の立場から物事を語るときがあるのですが、主人公にとっての春は「憐れ」そのものであって、春の中にいる自分は自我を引き離したとしても自分でいられる。本当に「憐れ」で美しい世界にいられる。春は誰に対しても平等に、無差別に綺麗だ。
春が直感的に好きというのもあるんですが、春の時間の流れが好きで、それを描きたいと思っています。春は自分の時間が他人事のように過ぎていく。出会いと別れが一気に訪れて、花が咲いたと思ったら散って、気がついたら昨日の自分とは全く違う道を歩いている。これは主観ですが、一年の中で一番過去のことを綺麗に思い出して、一番未来のための「今」を選択をしている時期が春だと思います。本当に刹那的な時間の中に、大量の過去と未来が詰まってる。それに関して、羊文学というバンドの「光るとき」という曲があるんですが、あれはマジで私の春なので、暇なときにYouTubeで聞いてください。この布教活動、10回くらい書いてるな……
外観的にも春が好きなので、絵を描くときはいつも春っぽさを意識しています。正直、春っぽさが何なのかは私にも全く分からないのですが……少なくとも透明感を出すことは大切にしています。
その他
友人について
OCの元ネタに関する話。
何度も書いているのですが、私の創作には元ネタの友人が二人います。そのせいか、OCのことを呼び捨てにできない上に「キャラ」として扱えない(OCと言うのもなんか心苦しい)、そんな風に言えない……そこに本当にいるので。 創作の内容は完全なるフィクションなのですが、二人の存在に対して「これはフィクションです」とは言えません。(でも描いてくださったりするのは凄く嬉しいです!本当に嬉しい!自創作をする上で私が激重感情抱いてしまうだけなので、他の方がOCの二人にいろんな解釈を与えてくれるのは単純に面白いし、そういうのもっと見たいです。)
萱乃さんと閖柯さんにそれぞれモデルがいるのではなく、私の友人の要素がごちゃ混ぜになっているのが創作の二人です。私の友人は二人とも小学校からの付き合いで、片方は中学の部活で同じポジションだった子、もう一人は音楽の趣味と思考の癖が同じスポーツマンです。創作で嫉妬や憧れについてよく描くのですが、それは全部私が友人に抱いていたようなもので、同時に友人が私に対して抱いていたものでもあります。これ書き出すと止まらないんだよな……ここから先は私の思い出話なので、薄目でざっと読み飛ばしてください。
中学でバレーボール部だった時、私も友人もセンターアタッカー(私はオポジット)、エース(友人)と裏のエース(私)的な感じでした。お互い本気で嫉妬していたけど、お互いがいないとやっていけない程には日常生活でもベタベタしてました。そんな中、詳細は全部省きますが、私初めて他人に泣き顔を見られたんですよね。今でも絶対に人前で泣かないんですけど、その時はこの友人に偶然見つかってしまい、我慢できなくてぼろ泣き、友人も何故か半泣き。慰め合うのではなく貶し合いみたいな会話をしました。小学二年生の頃から結構仲が良かったんですが、この時初めて互いの憧れと嫉妬について知りました。その時の会話はもろに創作の中にあります(公開してない書き物の方にガッツリあった、夢の話。前に公開したっけ……?)。
もう一人は部活こそ違ったのですが、音楽の趣味が全く同じで、今でもよく一緒にライブに行くような仲です。こいつは本当に私の人生を狂わせていると言っても過言ではない。根っこの部分が自分と酷似しているけど、他人からの見え方は全く違う。同族嫌悪はなく、気が合う。こういうのを馬が合うというんだろうな……ともかく、仲が良かったので中学の時から二人で旅行に行くことも多く、あり得ないほど絵になる思い出が沢山あります。しかし中3の夏休みほどエモい時間は無かった。私の自創作の半分以上は、中3の夏休みの感情から来ていると思います。これも憧れと嫉妬の話ですね。流石に要らん事書き過ぎたのでやめます。
萱乃さんと閖柯さんの憧れや嫉妬は、私と友人との思い出の反芻であり記録です。これだけは事実に基づいたフィクションとも言えます。ノンフィクションにすると生々しいし可愛くないので、あくまでもフィクションというのが大事。作り話を挟まないと、直接的な記録は衝撃的過ぎて後から自分で直視できなくなる。